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不幸のずんどこ、というほどではないけれど。 [徒然]

Twitterで定年を過ぎたあたりの人が趣味もなく時間を持て余すという話で、自分は暇な時間があったらたくさんやることがあるのになぁというつぶやきを見た。そういう人はある意味恵まれているわけで、多くの人は定年まで人生を擦り減らせてやりたいことも見つけられずに来たという事だ。

時間を持て余すというのは案外多くの人が該当するのではないかと思うし、実際定年後持て余して問題を起こして熟年離婚も少なくないわけだ。まぁ人生も最後に来て、自分の人生は困難で良かったのかなと振り返るのはありがちな事なのかもしれないけど、そのあとがそんなに長くないだけまだマシなのかもしれない。

その後が短くないけど人生を振り返らざるを得ないほど、ゆるーい時間を渡されてしまった自分としては、とても嫌な思いをするほかないのである。過去の人生の嫌な思いを噛みしめないといけないし、かといって何かをしたいという気持ちにもならない。

本当は何かをしたいという考えはあるのだが、病気の具合もあってやる気になれない。精神的、身体的、物理的にできないというのは、人間としてできないという事にほかならず、自己実現できないというのは多くは不満になりストレスを生む。

身体障碍者がパラリンピックなどに出ていて、俺がスポーツで一番になってやるぜぇというのを見て、人間ってどこまで行っても傲慢なんだなというのを見せつけられた。感動もないわけではないが、テレビで器具の調節をしている人への敬いとかがない人を見て、一般社会に出ないで人の好意をありがたく受ける事を当たり前に思っている人は無理してスポーツなんてやる権利はないんだと思った。当然そういう無礼に近い人ばかりではないにしろ、身体障碍者の人がわりと傲慢なのは今に始まったことじゃないわけで。あの乙武も精神的に落ちる奴は落ちろ見たいなことを著書で書いていたしね。多くは書かないけど乙武は傲慢の塊だと周知の事実だし。見ていて反吐が出る。

人間やろうという思いがあれば、それがどんなに自己満足であろうとも続けていけるものだ。ただ、災害や人生に降りかかる色々な不幸がそれを押しつぶしてしまう。そもそもの人生の空虚さもそれを手伝って追い打ちをかける事もあるだろう。そういう意味では健常者にしろ障害者にしろ平等に打ちひしがれる対象なのだ。

こういうことを書くとネガティブ過ぎると言われるのだろうが、実際にあることから目を背けていられない性格なのだ。だから夏休みでも宿題が残っているのが嫌なために早めに終わらせてしまおうという子供だった。そういう性分は長い間生きていても変わらない。悪いことばかりではないが、悪いことは必ずある上に、何かがなくてもそこに空虚が存在するのは昔からわかっていた。

不幸を避けるために必要以上に遠回りして、幸福になっていたかもしれない道すら通り越してしまっているのかもしれない。良くなるために努力をしていないわけではないのだが、幸福を色々なものに感じられるだけの素養がないというか、一般的に楽しいと思われているものが楽しくないことも多かったりした。


自民党の杉田水脈が「LGBTは生産性がないから、税金で助ける必要はない」みたいなことを言って物議を醸しだしていたけれど、生産性うんぬんを言い出したら、津久井やまゆり園で知的障害者を殺傷した容疑者と同じ論法になってしまう。本人は障害者などは保護すべき対象だというようなことも言っていたが、その矛先が変わっただけというのは間違いないことだろう。

杉田の言いたいこともホモセクシャルへの嫌悪感も分からないではないが、今政治家が当たり前に備えていなくてはならないポリティカルコレクトを持ち合わせていない事を露呈した。政治家も色々な事を考えている人がいてしかるべきだが、一般的に持ち合わせないといけない常識がどこまでなのかを再認識しないといけない人が自民党には多すぎる。

そう思っていても言っちゃいけない事とか、実際そうであっても言ったらレイシストと考えられるとか、事前に分からなかったのだろうか。世の中は困難を乗り越える方向に行くべきなのに、こういうおばちゃんがいると老害以外の何者でもないわな。ここ十年間ぐらいの自民党政治はそういう改悪ばかり法案を通そうとしてどうしようもない。それなのに人気が減らないってのも気持ち悪い世の中だ。

LGBTのカテゴリには入っていないが、そういうのを見ていると更に気持ちが暗くなる。ただでさえ自分の中の空虚さやこれからもある困難に対峙しなくてはならないのに、それ以上問題を吹っかけてほしくはない。

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