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自然の中のちっぽけな私 [徒然]

よく雄大な風景を前に、自分はなんてちっぽけなんだ、だから細かい事を気にせずクヨクヨするのはやめようなんて、ステレオタイプなシーンがあります。僕的には雄大な風景を前に、自分はちっぽけな存在な存在だと思う事もあった。はじめて塔ノ岳から見た富士山はいかにも壮大で、とてもきれいでした。でもね、小さい事は気にしない気分にはなれなかった。比較物ができたところで、自分の矮小さが露呈して、前に進もうとする心が折れてしまった。この世の中に存在する、私に関わるものは、結局のところ大抵小さいものだという事が判明してしまった。小さくても興味があったものでさえ自分を通り越してしまった。こうなるともうダメで、押しても引いてもびくともしない。生きていくのに意味があるんだろうか、とか考えだしてしまって、自分の10代は非常に深刻な問題で時間を浪費していった。

その後、ある程度の納得とともに、20代は大学を出て仕事に打ち込んだ。結局、一応は平静を取り戻していたが、社会との接点が歪なままなのは変わってなくて、すごく苦労する事になった。んで心身ともにズタボロになり、30代へ至る、感じ。今できるだけの客観視をしてみると、人間は大体細かいことを気にして過ごしている。そういう事を気にしないバランス感覚だと、周りから浮く事が多い。ちっぽけなところから気にしなければ、世の中をやっていけないようになっている。クヨクヨしなくともしない方が良い事を自然に学んでいくのが普通なのだが、ある種の空虚感はすべてを飲み込んでしまいひどい状態に陥る。

今は就職活動も半分諦めている。一年間就職活動してきて、ヒドいと思っていたカテゴリの職業にさえ戻れない有様。IT業界は色々ヒドすぎるので、正直やりたくはないのだが、できる仕事なんてSEに毛が生えた程度の事しかできない、と思う。他に興味がある事があれば良いのだが、心が折れた今では探すのも困難だ。だから目の前にあるものをできる範囲内で消化していく事ぐらいしかやってない。この世の中は一度踏み外すと戻るのが難しい。気持ち的に難しいのと、身体的に難しいのと、環境的に難しいのと、みんなが複合して、かなりのハードルになっている。今は平静に暮らしていければ、とりあえずその環境に甘んじているのが精一杯だ。

元々、何かがしたいというモチベーションが非常に低い。今まで、自由な時間を与えられて、困った事が幾度となくあった。小学生の夏休みは時間を持て余しているうちに終わった。中学生の休みは勉強しかなくて、高校は同じ轍を踏むものかと、三つも部活を掛け持ちしたが、忙し過ぎてすべて中途半端に終わった。大学は3年生のうちに卒業論文を書いてしまって暇になり、その後はバイトでもすれば良かったのだが、死ぬ事ばかり考えていた。生きている時間に何をすべきか分からず、楽しい事も大してない。

五体不満足の乙武が流行ったときがありましたが、テレビに出てとても傲慢な事を言っていました。心が折れるヤツは軟弱だよねって言っていた。暗く沈みがちなのは、乙武が手足が見た通りと同じように、持って産まれたものであることを分かっていない。というか、乙武が地面に叩き付けられないのは、人の悪意が及んでいないだけのはなしで、この世の中ではもっとヒドい悪意があることが分かっていない。人は自分がいる環境に慣れてしまい、それがあって当然と思うのでしょうが、無くしてわかる存在というのは、その場に身を置かないと分からないことが大半でしょう。それは彼の傲慢な物言いと、不自由な肢体が共存している事からも明白です。

自分がちっぽけな存在なのは仕方ないし、無理に拡張したところでたかが知れている。ある種のあきらめが必要なんでしょう。結局、生物として維持できれば、他の事なんて付随した事柄に過ぎないのですが、そこのところがちっぽけがちっぽけとして見過ごせない理由にもなっているのでしょう。簡単なことが簡単にできないのが現代なのかもね〜。


あぁ煮詰まってるなぁ。心身ともに蝕まれるとろくな事が無い。

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